第69回日米学生会議公式ブログ

実行委員や参加者の”裏側”を伝えていけたらなと思います。

曖昧であるが故の可能性〜「文化」を再考する〜

ブログをお読みの皆様、こんにちは。

日米学生会議、文化RT(分科会)所属の、松村謙太朗です。

沖縄研修も終わり、本会議までもう20日程度。目と鼻の先まで迫って来ました!

 

今日は、僕の所属する文化RTがこれまで取り組んで来たことや、それに対する僕の思いを書き連ねます。

 

文化RT。正式名称は「個人と社会における文化の意義」分科会となっています。これを考えるにあたり、そもそも「文化」の前提を考える必要がありました。

「文化」という言葉の包含する要素はあまりに膨大です。何を文化と言うんだろう?芸術とは違うもの?様々な観点がごちゃ混ぜになる前に、まず僕たちは「文化」という曖昧な概念に様々な切り口で形を与えることにしました。具体的には、「〜〜なものと**なもの」というような「分け方」を考えて行ったのです。

「モダンカルチャーと伝統文化」「目に見えるものと見えないもの」「一時的なものと永続的なもの」「芸術と生活習慣」…挙げていくと、案外五人が思いついた分け方のバリエーション自体は整理できる数でした。

 

この基礎視点に立ち返ることを常に意識しながら、次は各々のRTペーパー(本会議前に仕上げる各自の論文。自分がJASC期間中に調べ上げたいテーマについて研究する)の内容をシェア・吟味する日々が続いています。

推敲なしで最初に各々のペーパーのトピックを聞くと、全員が全く異なるテーマでした。これも、文化という概念の広さがもたらしたこと。ですから毎回のミーティングで、今まで考えもしなかったような見地が広がり、それが自分のRTペーパーで扱った興味関心の、思わぬ解決の糸口を見つけてくれることもしばしばです。

 

このようなプロセスを踏んでいく日々の中で、最近僕が思うことーーそれは、「むしろ文化という概念の曖昧さこそが、もたらすものが大きいのではないか」という考えです。

僕たちは最初の基礎視点を大事にしながら、具体的なビジョンを重視し、各々のRTペーパー、そしてファイナルフォーラムでの発表に向けての考えをまとめて来ました。ただ、ある一つだけの観点で文化に関する方策を講じても、やはりうまくいかない。そこに、複雑に絡み合う他の事象がくっついて、思わぬ出口が見えてくる…これは、「文化=**」という型にはめるのではなく、柔軟に「あれも文化の一部、これも文化と呼べる」という考えを持って初めて出会えるイノベーションです。それは言い換えるならば、「文化を曖昧なまま活かす」ということでもあるのです。曖昧だからこそ良い。曖昧だからこそ活かせるものがある。このような考えに至れるのも、一つのトピックについてとことん考えを深めてディスカッションできる、JASCの分科会制度の醍醐味だと思います。

 

他の分科会も精力的に動いているようですが、分科会ごとの議論の詳細なシェアはなされていません。ですから、本会議で彼らがどのような見地から議論を始め、どのような議論に至ったかを聞けるのが、とても楽しみです。また、僕たちも、5月発足から様々に紆余曲折を経た議論の成果を、十二分に仲間たちに伝えられたらと思います。

 

文化RTのこれからに、ご期待ください。本日は短いですが、これにて。ありがとうございました。

「平和主義」の言葉を覚えただけ?

 

 

こんにちは!明宙から指名してもらいました。

JOYこと佐々木彩乃です^^

明宙紹介の通り確かにJASCの二次試験である面接にはインターン中に参加しました(笑)

博多で19時までのインターン終了後、一度家に帰り準備をしてもう一度博多に戻り23時の高速バスに飛び乗ったのは今でも鮮明に覚えています。あれがなければJASCerとしての今がなかったと思うとたった3か月前が懐かしすぎる!

 

f:id:JASC69:20170612153218p:plain

 

マイノリティ分科会!!!!!

 

それはさておき

今回は防衛大学に行った際に国防に実際に携わろうとしている同世代と討議し、個人的に考えていたことを書きます(*´▽`*)

 

特に「戦争」という点についてです。

 

私は親の仕事の関係でいろいろな場所に住んできました。

特に長崎県では小学生時代を6年間過ごしました。(歴史のある素敵な港町です^^行ったことない人は是非一緒に行きましょう!笑)

 

f:id:JASC69:20170616204837j:plain

 

ところでご存知の通り長崎は原子爆弾の被害を受けた世界でたった2つしかない町の1つです。そのこともあって「平和教育」がとても熱心に行われています。(だからその後、栃木県に引っ越した際にあまりの戦争に関する教育の少なさに驚いたというか、周りの意識の違いに違和感というか。(あくまで個人的意見です!!!よ!!!)

 

例えば長崎では社会科見学に必ずといっていいほど原爆資料館を訪問し千羽鶴を寄贈します。8月6日、9日は登校日に指定されており被爆者の方々のお話を聞いたり黙とうをしたり戦争に関するビデオを見たり…その他にも原爆投下後の街を映した写真展が学校で開催されることもありましたし、町の図書館には常時「戦争・原爆コーナー」が設置されていました。

このような環境にあったこともあり幼い頃から戦争や原爆、そして同時に平和についてかなり興味を持っていました。(長崎の小学生皆、というわけではないですよ!!!)小学1年史の頃に読んだ『はだしのゲン』が衝撃的で著者である中沢哲治さんの作品で図書館にある『黒い雨に打たれて』等は全て読み、中沢さん自身についての本まで読み始める始末…諫早図書館の戦争コーナーの本についてはよく知っています(笑)原爆資料館も何度行ったか分からない…。

 

f:id:JASC69:20170616204918j:plain

よって私はある一定の時期まで「戦争は絶対悪であり原爆を使用したアメリカを許さない」と強く思っていました。

だからこそ「アメリカ人の多くは戦争終結の手段として原爆使用を肯定している」と聞いた時の衝撃といえば!!!というか、そんなことをいう人間が本当に存在するのか疑いしかありませんでしたが。

しかし、それからアメリカ側の意見を調べるうちに私の戦争や原子爆弾の使用に対する意識は徐々に変わっていきました。

初めはアメリカ人の考え方に強い怒りしか感じなかったけれども抑止力として核を持つ国が増えている中で「核兵器廃絶」「戦争は絶対悪」と叫び続けることが本当に正しいのか?

「平和主義」「戦争反対」…絶対的正義かのように暗記していたこの短い言葉の意味を深く考えたことがあっただろうか?

そして日本の主に社会科で行われているような「戦争」に関する授業は本当に正しいのか、現代社会の状況を反映しているのか?

と次々に疑問が湧いてきました。

私は「戦争反対」に基づく教育を、またはそのことを訴える作品、人にばかりに知らず知らずのうちに触れ戦争に関する物事を客観的に見るための視点を長い間知らず知らずのうちに失っていた気もしてならないのです。

個人的にはやはり「核兵器のない世界」、「戦争がない世界」を目指すべきだとも思いますが、これは理想に過ぎないのでしょうか。

でも今理想を追うためにはまず何をすべきかたくさんの専門家が、政治家がこのことについては述べていますが世界の足並みをそろえるのって不可能なんじゃないかって思えてしまうことってあるから…。

核兵器」は、「戦争」はこの世界には必要なのでしょうか?

普段は考えない、または「そんなわけない」と反射的に否定しがちなことかもしれないですがまた原爆の、終戦の夏が来る前にみんなに考えてもらいたいな、と思う今日この頃です。

 

f:id:JASC69:20170616204941j:plain

*写真は大浦天主堂!長崎は出島とかで有名なように南蛮貿易が栄えてました。

 それ以前にもキリシタン大名などもいたし、教会はたくさんあるよ!

長くなりました(;´・ω・)

しかも頭の中にある私の疑問をだらだら書いてしまったよ!!!!

でもブログだから…もしここまで読んでくれる人が1人でもいるならうれしいです(*´▽`*)

次は同じマイノリティ分科会の直毅です^^(わーい😃パチパチ)

なぜ私が直毅に次をお願いしたかというと、直毅は私が「仙人」として尊敬する考え方?話し方?の持ち主だからです。

めったに自分のことを自分からは話してくれません!

それでいて人の話をよく聞いてさらに深い内容を聞き出す質問の名人だと思っています。乗せられると話しすぎるよ(;´・ω・)

 

以上、ありがとうございました!

先入観の向こうに

自分のことを爽やかだと思ったことは多分ない、川崎明宙です。
この週末は能楽の舞台に出ておりました。舞台を無事務めることができてとりあえずひと段落ついたのですが、次の舞台に向かってまた稽古を始めております。

f:id:JASC69:20170602114104j:plain

 昨年、能と西洋音楽を融合した舞台のエキストラをしたときの写真(@楽屋)です。新しいものの創造の難しさを感じるとともに、玄人の稽古の厳しさを肌で感じました。

 

 私は生まれてから、ずっと京都府にいます。この話と、能楽の稽古をやっている、という話を合わせてすると、みなさんよく勘違いされます。さも僕が、京都の古い町並みが残る場所に住んでいて、伝統を大事にする場所で育って来た人であると思われる人が多いようです。

 しかしながら私が住んでいるのは、京都府の南の端にある新興住宅地であり、能楽の稽古も大学に入ってから始めました。うどんよりラーメンがいい典型的な現代っ子です。

 お話しようと思っているのも、こういう思い込みについての見方です。
 それでは、少し話がでてきた、京都について話してみましょうか。
 京都のイメージというと、「町家」、「舞妓さん」、「着物」、「お寺」、「抹茶(本場は京都市じゃなくて宇治やで?笑)」といった感じのものが良く上がってきます。実際に観光パンフレットも、こういったものをたくさん取り上げています。

私はこれを否定するつもりは全くありません。町屋をみればいいなと思いますし、バイト先には舞妓さんがくるし、寺に行くことも良くあります。能楽の舞台のときは(Made in Kyotoかどうかはわからないけど)着物を着るし、スタバの抹茶味はおいしいですよね(この言い方してる時点でスタバにあまり行かないことバレバレですが)。
 けれども、これだけが京都でしょうか?京都では、みんなが着物を着て歩いていて町屋に住んでいるのでしょうか。
そんなことはないですよね。もちろん、そういう方もいらっしゃいますが、ほとんどの人はそうではないわけです。洋服を着て、マンションや建売の洋風の家に住んでいる人がほとんどです。

 それだけじゃありません、京都には、京セラ、日本電産村田製作所をはじめ、技術力を持った、日本を代表する企業がたくさんあります。私の通う京都大学は日本で最も多く自然科学分野でノーベル賞受賞者を輩出した大学です(文学賞や平和賞をいれると東京大学の方が多いですが)。科学技術といった点でも京都は重要な地位を占めています。
 また、世界でブームを巻き起こした任天堂の本社は京都にあり、ポップカルチャーの面でも(ポップカルチャーというとAKBの横山由依は僕の中学の先輩です!)強い影響力を持っています。

 こんな感じで切り口を少し変えて見てみると、今まで見えてこなかった側面が見えてきます。京都の話は、決して京都の自慢をしたいわけではなくて(もちろん好きですけれども...笑)それを実感してもらいたかったからです。
僕があげた例は一般的なものなので、そんなの知ってるよというものばかりだと思うのですが、知っていることでも、いざバイアスがかかってしまうと。見えなくなってしまうことは良くあるわけです。

 人は第一印象であったり、世間で常識的に言われていることに縛られやすい傾向があります。そして一旦その視点に縛られてしまうと、そこから離れるのが難しくなります。
 けれども、そこから離れてみたときに、もっと広い世界が広がっていると思うのです。

日米学生会議での討議、FT、RTを通じて、この視点を忘れずに臨みたいと思っています。先入観を離れた時に見えるもの、それが私が見たいものです。

 

 それでは、次の人にバトンを渡します。マイノリティRTのあやのです!僕の部活の同期の高校のときの後輩という(近いのか遠いのかわからない...)、知り合いの知り合いでした。
インターンの途中にJASCの面接に突撃するタフな精神の持ち主です。面白い話を楽しみにしています!

170529 第二回勉強会 ブログ報告

こんにちは。

戸嶋寛太というものです。

はやく喋ることと、ドクターフィッシュが苦手です。

 

今日は、5/27(土)に行われた第2回勉強会について報告します。

 

 

勉強会とは?

 

勉強会とは、勉強をする会です。

ただ、「勉め強いる」ことはなく、

あくまでも主体的に、楽しく、相互に「学ぶ」会といった方が適切かもしれません。

 

週一で有志が集まり、特定のトピックについて、調べたり、お互いの知識や見聞を共有したりすることで

本会議に向けて全体知の総量をあげようというイメージです。

 

かく言う僕も先日初めて参加したのでもし本来のものと違ったらご容赦ください。

 

f:id:JASC69:20170531165658j:plain

 

(オンラインミーティングはこんな感じ)

 

 

第2回のトピックは「アメリカ」

 

中間試験と被っている人が多かったため、今回のミーティングはオンラインで、事前準備は特になしで行われました。

 

 

最初の参加者は男三人(男子校)。

それから、加わったり離脱したりで、最終的には五人くらいになっていました(ほぼ男子校)。

(戸嶋は昔から男を集めるフェロモンが出ていると言われます)

 

 

まず、それぞれが「アメリカ」について関心のあることを述べ、みんなで各トピックについて議論しました。

 

 

アメリカの政治・メディアや日米外交史などの硬い話から始まり、

メインディッシュとしてはアメリカ人のアメリカ人性はどこに依拠するのか、日本人の場合は?などのナショナルアイデンティティに関する話をしました。

 

具体的には、個人や生活のレベルに落とし込んで

 

「どういう時にナショナルアイデンティティを感じるか?それはいつから?」

「もし親の国籍がある日、別の国だとわかったらどうする?」

「サッカーや相撲・ラグビーにおける国籍の捉え方の違いってどこから生じる?」

国連職員と外交官のどちらになりたいか?」など、

 

日常生活ではまず聞かれることのない質問について考えていました(少なくとも僕は道端で日本人の日本人たる所以を尋ねられたことはありません)。

 

f:id:JASC69:20170530142023p:plain

 

(怖い顔をしてますが、ミーティングは楽しいです!)

 

 

しみじみと感じる多様性

 

議論を通じて感じたのは「多様性」でした。

 

当たり前かもしれませんが、みんな20年ほどの違う歴史を歩んでいます。

 

ある人は中国系アメリカ人で大学から日本に来ていたり、ある人は留学中のイギリスから勉強会に参加していたり(僕は19年間ずっと日本にいました)。

 

 

今回のトピックでは特に出自と住環境の多様性が顕在化しました。

 

自分は日本という国・国民性・文化に違和感なく馴染んでいて愛着を持っている一方で、

必ずしもそうではなく、留学先や出身国の文化や国民性に部分的あるいは全体的に愛着を感じている人もいる。

 

「日本が好き」という潜在意識下にある漠然とした感情に対し、

彼らに伝えるためにはその原因や経緯を明確に言語化して説明しなければなりません。

 

 

その過程で

 

「本当に自分は日本が好きなのか?いつから?なぜ?」

「日本のどういうところが好きなの?」

 

といった問いを繰り返し、同時に相手の価値観を聞く事によって、

自分の中に手付かずの状態で漠然とあった「日本が好き」という感情が揺らぎ始め、

ある部分は明白に好きという気持ちが強化され、

ある部分はもっと外の世界を見て判断するべき、

といった具合に感情が整理されていきました紙幅の関係と未熟な内省状態を理由にその部分について言及は差し控えます)。

 

 

今回の勉強会では「ナショナルアイデンティティ」という枠を通じて

お互いの価値観の共有、共有する過程と結果によって生じる自分の価値観の整理的変化が行われましたが、これは何も勉強会だけで起こることではないと思います

(実は後半は「恋愛」という枠でしたがこちらも紙幅とプライバシーの関係で省略します)。

 

分科会での議論や何気ない会話の中にも常にJASC69のテーマである

 

『Self and Society: Sharing Perspective and Inspiring Action

 己を省み、人を知る。〜価値観の共有から生まれる可能性〜』

 

が姿形を変えて潜んでいます。

 

「多様性」という言葉に収束するとなんだかありきたりに聞こえますが、

目の前にいる人たちがそれぞれ異なる経験をしてきて、

自分が当たり前と思っている事に対して異なる価値観を抱いている、

そしてその異なる価値観を時間をかけて包み隠さずに話すことができる(ここ大事!)時間と場所はなかなかありません。

 

JASCという恵まれた環境にいることを自覚しつつ、これからの活動を一つ一つ大切に頑張っていきたい、そんなことを確認する土曜日となりました。

 

f:id:JASC69:20170530142027p:plain

 

(イギリスからオンラインミーティングに参加する人も!----)

 

 

蛇足:多様性がもたらす幸せ

 

勉強会の報告とは完全にかけ離れた話となるのですが、「多様性」に関連して最近思っていることを共有したいと思います。

 

蛇足+整理仕切れていないので読み飛ばしてくれて結構です。

 

最近、あるきっかけがあって長らく「自分にとっての幸せとはなんだろう」と思考する機会がありました。

 

 

ここでいう「幸せ」とは「美味しいものを食べる」とか「よく寝る」とかの意味ではなく、

生涯を通じて実現したい究極目的」のような意味です(アリストテレスでいう「最高善」=「幸福」です)。

 

 

今まで自分の幸せは「自分が仲間だと思う人を幸せにすること」でした。

 

中高の部活の経験や、現在JASCとは別に行なっている、東大生の主体的なキャリア選択を支援する学生団体の活動からそういう思いを持っていて、

将来は漠然と日本人の幸せの維持向上に関わる仕事に就きたいなと思っていました。

 

 

ですが、最近になって、個人的な出来事と天邪鬼な性格のせいもあり、その幸せの価値観をも疑い始めるようになりました。

 

他者のための自己犠牲が本当に自分の幸せなのか?

目の前の他者に対する貢献に幸せを感じているか?

他者への貢献を自分の幸せと定義すること自体に自己承認欲求が混じっているのではないか?

 

などなど。思考の渦に飲み込まれ、モヤモヤとした日々を送っていました。

 

 

自分にとっての幸せをビシッと正確に定義できない。

思えば、昔からこんな性格でした。

 

どんな次元の話であれ、自分の選択に自信が持てず、何をするにしても優柔不断。

特に感情を評価するのが苦手で、

何が自分にとって「善い」ものであるのかが直感的に分からないから、「好き」という気持ちにもクエスチョンマークをつけてしまう。

 

「好き」というある種感情の根源にある気持ちが漠然としているから、

そこから生じる「憎しみ」や「怒り」などの感情も漠然としているし、

「好き」という気持ちを逸らすようなものや障害があると、正当に評価できず怠惰な心や「怖れ」を持ってしまう。

 

そのことで外界と上手く関係できずに、チャンスを逸してしまったり、人を傷つけてしまっていました。

 

 

そんな回りくどい回想に耽りながら自己嫌悪に陥っていたのですが、

ある日、一周回ってその状態を受け入れ、なら自分にとっての「善い」ものの基準を一つずつでも今より明確にさせていって、

最終的にはうまく自分の感情を評価できる人間になりたい、心からそう思うようになりました。

 

そして、自分にとってのが定まっていて、感情をうまく評価でき、外界に対して自分が正当な感情で関わっている状態こそが自分にとっての幸せなのかもしれない。

 

回りくどい言い方ですが、この幸せの定義は自分なりにストンと腹おちした気がしました(とはいえ、まだ完璧な定義だとは思いません。これだと「自分にとって「善い生き方=幸せ」を見つけることが幸せ」という言葉遊びみたいなのになりかねない?)。

 

 

では、どうやって自分なりの善を定めるのか。

そこで出てくるのが「多様性」です。

 

善を定めるには知識をつけることはもちろんですが、

常に自分の善が揺らがされ、善について思考せざるを得ない環境に身を置くことが必要になります。

 

勉強会の報告の部分にも書きましたが、価値観の多様性が顕在化する環境では、

自分の価値観=善の捉え方をできるだけ言語化したり、

他者の意見と比較して相対化して考える必要があり、

その過程でしっかりと感情レベルで自分の価値観=善の捉え方が明確化されていきます。

 

だから、自分にとって「多様性」が顕在化され、共有される環境は幸せを生む、あくまでも暫定的な考えですが、最近はそう思っています。

そして現にJASCの活動を通じ自分の価値観が少しずつクリアになっていきそうな感じに少なからずの幸せを感じています。

 

 

回りくどく支離滅裂で言葉足らずな蛇足でしたが(JASCだとめっちゃC(=Clarify)サイン飛んできそう)、

僕が今幸せの獲得に向けていい感じの環境にいれることに満足している、ということが伝われば幸いです。

 

長くなってすみません、頭の中からは以上です。

「いじり」の構造

こんにちは!!!立て板に水系日本男児ことまつけん(松村)から引き継ぎました思想RTの野間です。あだ名はまんすです。(由来は極秘㊙︎)宜しくお願いします!この度、末席ながらも第69回日米学生会議日本代表派遣団の一員とならせていただき、光栄の限りです。名に恥じぬよう、自力と他力を信じて精進しますので、何卒宜しくお願いします。

 

まつけん他己紹介ありがとう。ご紹介の通り、僕は、京都大学工学部で化学を専攻しています。しかし、もはやこの肩書きは不要であるというか、実は僕の1%さえも表していません。何学部か自分でもわからなくなるくらい興味関心が多岐にわたっているからです。

 

宇宙、文明、生命の構造や本質といったものに惹かれ、できる限り身体の制約を超えて空間と時間を無限往復運動し、彷徨う中で、自分の命をこの世界に繋ぎとめる確かなものを求めて生きている未熟な野蛮人です。「森羅万象を解明したい」そんな不遜な欲望と共に生きています。

 

なぜ思想RTを志望したのかについて、一言だけ。

 

思想は僕の人生そのものだからです。思想が現代において価値があること、社会が今緊急的に必要としていることは、強く首肯するところですが、何よりも自分の人生に意味がある。だからこそ選びました。難しい理論はたくさんありますが、そんなものは二の次です。

 

思想分科会を作ってくれたまっさん本当にありがとう。いつか泣かせます(てへぺろ

 

『思想により生かされ、生きることで思想を還す』

 

先人から受け継いだ魂を自分の肉体を通して、少しでも磨き、後世に継承する。そんな生き方ができたら本望です。という感じで簡単な自己紹介を終わらせ(自己紹介になってないかもしれませんが笑)、本題に入ろうと思います。

 

いじる・いじられるの構造と本質

 

急にですが、クラスに何人かはいじられキャラっていますよね。彼らの周りはいつも暖かい空間が広がっています。いじったり、いじられたりするとなんか笑いが生まれたり、仲が良くなったりしますよね。急に壁が無くなって、心の底から繋がっている感覚になれたり。初対面なんか特に、こういういじる、いじられるの相互関係になった途端に、距離が縮まります。特に、恋愛とかもういじれる関係になったら勝ちですよね。笑

 

僕の人生を通しても、いじったり、いじられたりすることであらゆる人達と親密な関係を築くことができたことが多々ありました。高校まで野球部に所属していたこともあり(野球部はくだらないノリや、いじることが大好きというのが鉄板(僕もそのDNAを確実に受け継いでいます笑))いじりの現場に当事者として関わる機会が多かったのです。いじる、いじられるには何か凄い力があるはずだ。ずっとそう思っていました。そんな時に、今回の日米学生会議の春合宿が訪れ、うっすら思っていたことが確信に変わりました。簡単に言うと、僕の分科会のメンバー同士がいじり合う関係になった時に、チームの仲の良さが格段に上がったのです。いやあもう自分の中では大激震ですね。問いを持って生きていたら、目の前に現れる体験がそれを教えてくれるんだなあと改めて感じました。

(下の写真、左から野間、吉村彩、新郷雅大、押切彩、大野友)

少し画質が良くないですが、愛しの思想メンです!

f:id:JASC69:20170526201526j:plain

ということで、この現象を解明したく少し考えてみることにします。。「いじる・いじられる」の構造と本質に自分流で迫りたいと思います。

f:id:JASC69:20170526201459p:plain

二者間でのコミュニケーションを上記のように簡単に図式化します。

 

基本的に1on1の公的空間(初対面の場)などは、相手のことを探りながら、矢印aと矢印b(以下矢印省略)により、コミュニケーションします。相手の表情や、言動の節々から相手のことを知ろうとするが、なんかぎこちないです。本当に相手と繋がっている感覚にはなかなかなれない。なぜなら、aとbが指す対象は相手が公的に演じた姿だからです。公的に演じられた相手を見ながら、自分の中の私的空間に相手像を描きます。このやり取りを繰り返す中で、相手のことを徐々に知っていきます。(知っていった気になるという表現が正しいか)だが、このやり取りを何回繰り返してもなんかしっくりこない。いわゆる「なんか気まずい」「なんかぎこちない」ってやつです。むしろ初対面の頃は未だ会ったばかりだからと言い訳できましたが、長く付き合っていてもその状態だと「その人とは合わないんじゃないか」と思ってしまいます。なぜそうなってしまうのだろうか?

それは、aとbはあくまで相手の演じられた姿を見ていて、それにより相手の像が作り上げられていく。演じられた姿を把握することは、相手のことを本当に理解することにはなりません。微妙な誤差の繰り返しが積み重なり、自分の描いている相手像と本来の相手の姿の間に大きな乖離が生まれ、コミュニケーションがぎこちなくなるのです。(いわゆるバタフライ効果です)

 

では、どうすれば、そのなんとも言えないぎこちなさは解消されるのか?

また、図を持ってきます。

 

f:id:JASC69:20170526201503j:plain

 

何が変わったのでしょうか?新たに現れた矢印はcとdです。これがキーになると思っています。そして、ここで遂に「いじる」という行為が登場するのです。cとdの意味は公的に演じられた相手を見るのではなく、その奥にある私的空間を見ようとすることです。私的空間とは例えば、自分のコンプレックス等が含まれます。初対面や公的な場では、なかなか見せたくない自分の苦手なことや、弱点といった恥ずかしさを覚えてしまいがちなことです。(フロイトの抑圧理論等も参考に)

いじるという行為は相手のそのような部分を認めて、それを巧みにコミュニケーションの手段に変換する行為です。本当に相手のことを知るためには相手の私的空間を見る力が必要なのです。懐に入るのが上手い人はこれが自然にできる人だと思っています。

(ここは、本当に繊細で、難しいところで見られたくないかもしれない私的空間をどうやって相手の心地よい形で引き出すか?そもそも引き出す必要があるのか?と常々自問するところです。)

 

コンプレックスや恥ずかしいことをおもしろおかしく表現することはともすると「いじめ」につながりかねないと思う方もいると思います。「いじめ」に関しては本当に複雑な因果が絡み合っていることだと思うので、僕ごときが言及できるものじゃないので、僕の中では、上記の図の中のみに限定して「いじる」と「いじめ」の明確な違いを述べます。

 

「いじめ」はaとbで相手のコンテクストに寄り添うことなく、コンプレックスや恥ずかしいことをおもしろおかしく表現することで、「いじり」はcとdで相手のコンテストに寄り添った上で、コンプレックスや恥ずかしいことをおもしろおかしく表現することだと思っています。

 

このように「いじる」ことはコミュニケーションを円滑に、より繋がっているという感覚をもたらしてくれますが、使用する際は、「相手のコンテクストに寄り添う」という前提が必要なのです。

「いじる、いじられる」というのは『相手のコンテクストに共感し、私的空間にあるものを巧みに引き出すことで、演じられた相手を通して描いていた相手の像を、一度解体し、本来の相手の姿を公的空間に出現させることで相手との繋がりをより親密にする行為』だと僕は定義します。

 

そして、「いじる、いじられる」を考える上でキーとなってくるのは「共感力」だと思っています。

これもまた本当の意味を突き止めようとするとなかなか一筋縄ではいかない言葉だと思っています。

そして、さらに書いてる途中で、「でもよく考えると、いじる、いじられるというのは表面上でキャラを作っているケースも多いではないか」と思い、これについても考えましたが、紙幅の関係で今回は割愛します。笑 僕はこれを「欺瞞的いじり」と名付けます。

 

また、機会があればそれと「いじる」の方法論的なところ、(そして今回は「いじる」側からの視点が多かったので)「いじられる」側の視点、組織、共同体における「いじり」文化の意義と役割、「いじり」から考えるコミュニケーション論の展望まで書けたらと思います!(次は、また違うテーマで書きたくなると思うのでいつになるかはわかりませんが笑)

稚拙で退屈な論考に最後まで、お付き合いくださった方ありがとうございます。紙幅の関係で伝えたいところを全然伝えられませんでしたが、「いじる」ということを通して、少しでもコミュニケーションというものを考えるきっかけになっていただけれたなら望外の喜びです。

 

今回書くにあたって、本当に人間のコミュニケーションは奥深いなあと思い直すきっかけになりました。「コミュニケーション」というシンプルなように見えて、実は深淵で、興味深い問いに対して人生通して考え続けていきたいと改めて思いました。

 

Self and Society: Sharing Perspective and Inspiring Action

己を省み、人を知る。〜価値観の共有から生まれる可能性〜

 

これは実行委員会の方々が熟慮を経て創り上げた本会議のテーマです。このテーマは好きという言葉では軽すぎるくらい気に入っています。複数の価値観を持つ、個性豊かな日本側参加者、アメリカ側参加者と一ヶ月間対話を重ね、自己と他者という無限の関係性の中でコミュニケーションというものに迫れたらなと思っています。

2017夏。とても大変だろうけど、それをはるかに超えるくらい楽しみです!

 

最後に次回予告です。

次にバトンを渡すのは

 

(まつけんと同じ)文化分科会・川崎明宙

 

くんです。彼は僕と同じ京都大学の工学部に所属しながら、日本の伝統文化である能をしている得体がしれない渋爽やか系男子です。能の魅力を語ってくれる彼は日本の魂の生き字引的存在です。話し方や間合いの世界観が独特で興味の尽きない人物です。(モノマネ練習してます笑)彼は何を語ってくれるのでしょうか?みなさん乞うご期待!

 

野間からは以上です。駄文にお付き合いくださりありがとうございました!

 

思想RTガンガンいこうぜええええええええい!!!

f:id:JASC69:20170526201536j:plain

本当の話し上手は「聞き上手」

こんにちは!まっさんこと新郷からバトンを引き継ぎました、文化RTの松村です。

まっさん、的確な他己紹介ありがとう(笑)👍

JASCについてのことを書く前に、まずは僕の自己紹介シートを読んでください!

f:id:JASC69:20170523005856p:plain

ここに書ききれなかったこととしては、四季折々の移り変わりを味わうのが大好きなことでしょうか。Facebookのプロフィールは基本、四季の移り変わりとともに変わって行きます(まだ桜と一緒に写った写真のままなので、そろそろ新緑のものに変えたいです)。季節感を大事にしたいという気持ちが、茶道と相性がいいのかもしれません。

f:id:JASC69:20170523014608j:plain

     茶道へは、いつも袴を着て行きます。道中、ツツジが咲いていて綺麗でした。季節感大事

 

日本人であること

JASCの志望動機はFacebookに書きました。しかし、僕がなぜ「文化」の分科会を選んだかは書いていません。少しだけお話しさせてください。

美しい四季折々の自然を見たとき。日本食に舌鼓を打ったとき。日本発のゲームでいろんな人と繋がれたとき。僕は自然と「日本人でよかった」と思います。僕は日本が好きなのでしょう。将来には外務官僚になって、日本を支えたいと思うくらいには、愛しているのでしょう。

しかし、その漠然とした気持ちに明確な根拠がないことに気づいたのが、去年の秋の大学での授業でした。「現代日本を考える」という全10回ほどの授業でしたが、毎回毎回異なる専門分野の教授の方々が、国際関係・宗教・思想・経済など、様々な切り口で今の日本・日本に生きる人々の考え方を紐解いて行く授業でした。日本のことを考えるには、これほど多くの要素を加味する必要がある。中には、とても大きくて解決できそうもない、答えのない問いを投げかけてくる先生もいらっしゃいました。僕が日本を愛しているという事実はそれでも揺らぎませんでしたが、しかし「でもじゃあ、なぜ自分はこんなに日本が好きなのだろう?」という、今まで考えたことのなかった根本的な問いが浮かび上がってきたのです。

その中で考えたのは、「我々を日本人たらしめる要素は何か」ということでした。共通の言語を話すことか。共通の歴史背景を持つことか。日本の国内で生まれたことか。様々な可能性がある中で、考えなければならないのが、我々が漠然と共通の認識として共有しているであろう「日本の文化」です。

日本の文化、とはなんでしょうか。様々な切り口が考えられます。一番簡単なものが、「伝統芸能/ポップカルチャー」の違いでしょう。歌舞伎、茶道、和服と行った純日本風な文化と、アニメ・漫画・ゲームに代表される新興勢力。どちらも日本の文化と呼ぶにふさわしいものでしょう。他にも、「永続的なもの/一時的なもの」「目に見えるもの/見えないもの」など、様々な観点で、日本の文化という曖昧な概念に「形を与える」ことはできるはずです。

そのようなプロセスを通し、僕はこの日米学生会議で、

「日本の文化」に裏打ちされた、自分の「日本に対する思い」の正体

を見つけることができたらと考えています。そこをクリアにすれば、自ずと将来自分が本当にやりたいことも、見えてくるはずです。であるからして、僕が「文化」の分科会を選んだのは、必然でした。

(下の写真、左から諸星渚、下吹越愛莉、松村、川崎明宙、河崎涼太)

f:id:JASC69:20170523014821j:plain

聞き手のプロが教えてくれたこと

選んだ「文化」の分科会のコーディネーターのりょうた(河崎涼太)に、僕が初めて出会ったのが、去年の冬のJASCの説明会です。その時から彼はとても物腰柔らかく、ゆったりと話す人でした。1から100まで全部を一気に話そうとする僕とは、まるで話す方法が異なります。

ですが、それは彼が話し下手であるということとは、全く同義ではありません。むしろ逆です。彼は僕より話がずっとうまい。それを痛感したのが、春合宿でした。

春合宿は、JASC日本代表のデビュー戦といっても過言ではありません。初めて全員が直接面と向かって一堂に会し、お互いがどの様な人となりかを知る2泊3日です。「ここで一発存在感を放って、しっかりJASCの中に居場所を作ってやろう」。そう考える人も少なくなく、僕もその一人でした。合宿開幕と同時に、自分の持ち味であるトークをハイペースで続け、みんなの陰に隠れないよう、必死になっていました。

そんな中、りょうたと何とは無しに話す機会がありました。彼はいつも「最近どう?」とか、「JASC充実してる?」とか、そういうゆったりした話題から始めます。エンジンをかけっぱなしで話し続けている僕は、そのスピードのままたくさんの情報量を持った言葉を彼にぶつけました。

彼はそれらを全て頷きながらじっくり聞いてくれ、そして次に「なぜそう思うのか」「こう考えたことはないか」など、全く別の見地からの意見を「導き出そう」としてくれました。自分の考えは押し付けない。しかし、相手のペースには絶対流されない。なぜなら、彼は相手の話をじっくり、じっくり、100%理解してから話すからです。自分の確固たる考えがあっても、それで他人を攻撃はしない。会話は生み出すものであること、和を尊ぶものであることを、彼はおそらくJASCメンバーの誰よりも理解しているのだと、思います。

今まで、自分の考えを全て言語化して、相手にぶつけ、それこそ「言い負かす」「納得させる」ことに躍起になって無意識に生きてきた僕は、ここで軌道修正をすることができたように思います。そう、

本当の話し上手は「聞き上手」

なのです。

f:id:JASC69:20170523015340j:plain

       分科会で話し合うときも、彼は聞き役に徹し、的確なアドバイスをくれます

 

聞き手のプロが教えてくれたこのコツを大切に、向学心溢れる仲間たちとこれからも話し合いを重ねていこうと思います。その中で、最初に触れた「日本への思いの正体」を知ることができたら嬉しいし、また、文化が外交において成せる役割についても考えられたら言うことなしですね。今から、ワクワクが止まりません。

 

駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。次にバトンを渡すのは

思想分科会・野間康平

くんです。彼は京大の理系分野に所属しつつも、哲学的な思考に身を置くことを大切にしています。そして、よくInstagramに、なかなか小洒落た写真とともにポエムを投稿するのです!彼とは現在、ある秘密の企画制作を進める班でも一緒に活動しており、これからも激アツな交流が予想される仲間の一人。どんな文章を投稿してくれるのでしょうか?みなさん、ぜひお楽しみに!

それでは、今回は文化分科会の松村がお送りいたしました。分科会、盛り上げていくぞ!

f:id:JASC69:20170523015731j:plain

公式行事① 春合宿!!

こんにちは、ブログ担当の新郷です!

 

最近本当に蒸し暑くなってきましたね〜。そして、梅雨が近づいてきていますね。そろそろツツジの季節も終わって今度は紫陽花ですかね。休学してることをいいことに平日の鎌倉探索を決行しようかと考えている今日この頃です笑。

 

更新頻度が落ちてしまい申し訳ありません!GWで休みだったのにおまえたちは何をやってたんだという声が聞こえそうなのですが... 

今回は、そのGWまっただなか、5月5日(金)〜7日(日)に行われた春合宿の様子をお伝えしたいと思います!

 

春合宿とは

春合宿とは、毎年この時期に行われる、日米学生会議の参加者決定後、初めて全員で顔合わせをする2泊3日の合宿です!

JASCとは何かを学ぶ時間あり、

f:id:JASC69:20170515170527j:plain

主催団体である国際教育振興会の理事長である伊部様のお話

 

アラムナイの方々と交流する時間あり、

f:id:JASC69:20170515170651j:plain

GW中にもかかわらず駆けつけてくださったアラムナイの皆様と69回参加者

 

みんなで仲良く遊ぶ時間あり、

f:id:JASC69:20170515170941j:plain

代々木公園でプチ運動会!

 

真剣に議論する時間あり、

f:id:JASC69:20170515171504j:plain

2日目朝のWake-up Talkの様子

 

の本当に盛りだくさんの2泊3日となりました!

 

この合宿を機に、日本側の本会議事前準備活動が本格スタートするわけですが、必ずしもデリ全員が関東圏内に住んでいるわけではないので、この合宿でどのくらい仲を深められるかが、今後の事前準備活動の活発さにも大いに関わってきます。

今年は事前に設定された分科会以外にも、自主的に様々な分科会がデリたちで立ち上げられ、とても良い滑り出しになったと思います!

f:id:JASC69:20170515171211j:plain

春合宿全体集合写真

 

春合宿担当として

ここからは春合宿担当としての雑感になってしまうのですが、僕は、前回のブログでも紹介したぴーすと一緒に春合宿運営を担当していました。実行委員活動が始まった9月から約半年間、去年の春合宿プログラムの検討から改善策の模索、新企画提案を地道に行ってきました。

その過程は、刺激的であると同時に挫折の連続でもありました。春合宿は69回にとって36人で集団行動をする初めてのプログラムということもあって、全てが初体験。プログラムの最終責任が学生にあることがこれほどまでに重責になるとは全く想像できなかったし、自分なりに万全の準備体制で春合宿を迎えたはずが、細かいところに気が回っていないことにその時になってはじめて気づくなど、常に自分の無力感と向き合わされました。

あれほど、ピースとデリにとって最高の春合宿にしようと固く誓ったのに、1日目はデリの満足度よりも「なんとか早く無事平穏に終わらないか」と無意識に考えてしまっていたし、運営に対するありがたい意見・忠告も、半ば衝動的に耳を塞ぎたくなってしまう自分がいました。

 

そんな、ある意味最悪の心境の中で迎えた春合宿最後のプログラム・リフレクション。このリフレクションは、JASCの伝統であり、プログラムの節目節目で行われます。詳しいことはまたの機会に説明しますが、この場では36名が一つの円になって、同じ場と時間を90分間共有しました。

この場をどう捉えるかは十人十色の解釈があっていいと思いますが、あえていうとすれば、「内省と対話」の場です。基本的に多忙を極める日米学生会議の活動の中で、本当に静かにゆっくりと自分の内面を見つめ直せる場。そして、それを誰からともなくぽっとその場に共有することで生まれる他の参加者との対話の可能性。

春合宿で行われたリフレクションで、プログラム中の自分の内面の葛藤を共有してくれる人、JASCに対する感謝を述べてくれる人。そうしたデリ一人一人のの春合宿を通じて感じた思いを聞いていたら、なんだか救われたような、心が洗われるような気分になりました。

それは自分が参加者だった時に抱いていたJASCへの思いや、実行委員をやろうと決断した時の初心を思い出したからです。自分はなぜ春合宿担当になりたかったのか、デリにどのような機会を提供したかったのか。多忙な中で半ば忘れかけていたそうしたものをひとつひとつ拾い直し、デリの言葉とそれを照らし合わせていく中で、もちろんできなかったこともたくさんあるけれど、この半年間実行委員と頑張ってきてよかったと思えました。

 

あまりにナイーブな意見ではありますが、本当に打ちのめされるくらい改善点がたくさん見つかったけれども、それでも69回のこの仲間たちと前を向いて進む力を十分すぎるくらい与えてもらって終えることのできた春合宿でした。

 

最後に、春合宿を成り立たせるために関わってくれた全ての人に感謝したいです。GWにもかかわらずLectureを快く引き受けてくださった方々、オリセンまで駆けつけてくださったアラムナイの方々、様々なミスの半ば辟易しながらも見捨てずに手伝ってくださった国際教育振興会の皆様、そして、この春合宿を一緒につくってくれた69JASCerのひとりひとり、本当に本当にありがとうございます。

 

f:id:JASC69:20170515173700j:plain

おまけ。My Dearest 相棒・ぴーす

 

春合宿でついに正式なブログチームも発足したので、これから本格的にJASCの活動、JASCerの頭の中などを伝えて参りたいと思います!乞うご期待!

 

次回の投稿は、「個人と社会における文化の意義」分科会の松村謙太朗(通称・まつけん)!!

彼は、とにかくめっちゃ喋る笑。その口調から最初は少しきついやつって思うかもしれないけど、自分を動物に例えると子犬らしく、確かに寂しがりやで心優しく、人懐っこいところがあってとても可愛いです笑。

 

それでは、お楽しみに〜