第69回日米学生会議公式ブログ

実行委員や参加者の”裏側”を伝えていけたらなと思います。

曖昧であるが故の可能性〜「文化」を再考する〜

ブログをお読みの皆様、こんにちは。

日米学生会議、文化RT(分科会)所属の、松村謙太朗です。

沖縄研修も終わり、本会議までもう20日程度。目と鼻の先まで迫って来ました!

 

今日は、僕の所属する文化RTがこれまで取り組んで来たことや、それに対する僕の思いを書き連ねます。

 

文化RT。正式名称は「個人と社会における文化の意義」分科会となっています。これを考えるにあたり、そもそも「文化」の前提を考える必要がありました。

「文化」という言葉の包含する要素はあまりに膨大です。何を文化と言うんだろう?芸術とは違うもの?様々な観点がごちゃ混ぜになる前に、まず僕たちは「文化」という曖昧な概念に様々な切り口で形を与えることにしました。具体的には、「〜〜なものと**なもの」というような「分け方」を考えて行ったのです。

「モダンカルチャーと伝統文化」「目に見えるものと見えないもの」「一時的なものと永続的なもの」「芸術と生活習慣」…挙げていくと、案外五人が思いついた分け方のバリエーション自体は整理できる数でした。

 

この基礎視点に立ち返ることを常に意識しながら、次は各々のRTペーパー(本会議前に仕上げる各自の論文。自分がJASC期間中に調べ上げたいテーマについて研究する)の内容をシェア・吟味する日々が続いています。

推敲なしで最初に各々のペーパーのトピックを聞くと、全員が全く異なるテーマでした。これも、文化という概念の広さがもたらしたこと。ですから毎回のミーティングで、今まで考えもしなかったような見地が広がり、それが自分のRTペーパーで扱った興味関心の、思わぬ解決の糸口を見つけてくれることもしばしばです。

 

このようなプロセスを踏んでいく日々の中で、最近僕が思うことーーそれは、「むしろ文化という概念の曖昧さこそが、もたらすものが大きいのではないか」という考えです。

僕たちは最初の基礎視点を大事にしながら、具体的なビジョンを重視し、各々のRTペーパー、そしてファイナルフォーラムでの発表に向けての考えをまとめて来ました。ただ、ある一つだけの観点で文化に関する方策を講じても、やはりうまくいかない。そこに、複雑に絡み合う他の事象がくっついて、思わぬ出口が見えてくる…これは、「文化=**」という型にはめるのではなく、柔軟に「あれも文化の一部、これも文化と呼べる」という考えを持って初めて出会えるイノベーションです。それは言い換えるならば、「文化を曖昧なまま活かす」ということでもあるのです。曖昧だからこそ良い。曖昧だからこそ活かせるものがある。このような考えに至れるのも、一つのトピックについてとことん考えを深めてディスカッションできる、JASCの分科会制度の醍醐味だと思います。

 

他の分科会も精力的に動いているようですが、分科会ごとの議論の詳細なシェアはなされていません。ですから、本会議で彼らがどのような見地から議論を始め、どのような議論に至ったかを聞けるのが、とても楽しみです。また、僕たちも、5月発足から様々に紆余曲折を経た議論の成果を、十二分に仲間たちに伝えられたらと思います。

 

文化RTのこれからに、ご期待ください。本日は短いですが、これにて。ありがとうございました。